日本屈指のラッパーTWIGYとコラボした大人気曲「RAPATTACK」や、
ヒップホップ好きなら知らぬものはいないZeebra、RINOとコラボし話題の「CLASSIC」で知られるdj Honda。
DJでありながらトラックメーカーとして世界を股にかけて活躍し、様々な有名ラッパーにビートを提供、
ヒップホップのジャンルを越え、世界的ジャズトランペッター日野皓正との楽曲もリリースしてきました。
また『h』マークの入ったキャップやスニーカーなど一度は目にしたことがあるファッションブランドを手がけ、
今では当たり前のヒップホップとファッションの融合を初めて行った実業家の顔もあります。
近年では日本に拠点を移し、B.I.G.JOE、紅桜、SIMONJAP、ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)などにビートを提供し、多くのラッパーからリスペクトされています。
そんなdj Hondaですが、華々しい経歴の裏には音楽の挫折がありました。彼の曲に込められた思いや、経歴を紐解くことでヒップホップをもっと楽しめること間違いなし!それでは早速 Check it out!
「dj Hondaは〇〇という困難を、△△で乗り越えた。」
dj Hondaのプロフィール
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アーティスト名 | dj Honda |
本名 | 本田勝裕 |
年齢 | 58歳(1965年 生まれ) |
身長 | 不明 |
出身地 | 北海道 |
学歴 | 高校(中退) |
拠点(レペゼン) | アメリカ→札幌 (現在) |
所属レーベル | dj honda RECORDINGS |
dj Hondaのトラック
dj Hondaが作る骨太なビート、無敵感のあるサウンドはまさにヒップホップのクラシックと言っても過言ではありません。
世界を相手に勝負してきたdj Hondaは、35年間以上毎日息をするようにビートを作りあげてきました。90年代のヒップホップに根ざしたものではなく、その日、その時で最高のビートを作り上げたからこそ、芯のある曲を作り上げています。また、彼自身、対談でこう答えています。
別に昔風とか、なんとか風とか考えていないし。こんな曲作ろうよっていうのもないし。できたものが作った曲だから。それを毎日。
TOKION-TWIGY × dj honda――アルバム『RAPATTACK』が生んだ無敵の化学反応
彼の手掛けた曲はどれも「王道でカッコイイ」ので是非、ヘッドフォン爆音で聴いてほしいです。
dj Hondaの名前の由来
本田さんがDJをしているからシンプルにdj Hondaと名付けました。デビュー当時アーティスト名に名字を使うのは珍しかったそうです。
ちなみにすべて大文字にすると車のHONDAになってしまうからあえて小文字を使用しています
ギタリストの夢、挫折から始まるdj Hondaの人生
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北海道に生まれる
小学校時代にロックに出会い音楽に目覚める
高校を中退
ロックギタリストを夢見て上京
ロックギタリストの夢破れ、静岡のディスコで働く。
静岡のディスコでクラブDJになり、ヒップホップに出会う
DJKOOらと日本初のリミックスユニット「The JG’s」を結成。
日本でヒップホップの限界を感じ挫折
ニューヨークのDJバトル世界大会で「準優勝」を収める。
アメリカに拠点を移し、トラックメーカーとしての活動に専念する
1995年に東海岸のラッパーと作り上げたアルバム「djhonda」をリリース。
1997年にリリースされた「Travellin’ man」はアジア人として初めてビルボートチャートにランクインする
1999年に自身のレコードレーベルを立ち上げる。
北海道に生まれる
dj Hondaは北海道で生まれました。
小学校時代にロックに出会い音楽に目覚め、ギターを覚えます。
ロックギタリストを夢見て上京するも挫折
高校を中退し、ロックギタリストになる夢を持って上京するも挫折してしまいます。
その後は東京を離れ静岡のディスコで働き、クラブDJをすることに。そこでヒップホップと運命的な出会いを果たしました。
クラブDJに転身し活躍するも行き詰まる
ヒップホップにのめりこんでいったdj Hondaは、新宿、池袋、渋谷、六本木とクラブDJとして活動の幅を広げていきます。
1980年代中盤には、現在TRFでリーダーを務めるDJKOOらと日本で最初のリミックスユニットThe JG’sを結成。
人気アイドル早見優のバックや、The JG’s名義でシングルをリリースし活躍するも、当時の日本ではDJへ対する理解は低く自分の将来に不安を感じます。
本場アメリカニューヨークで結果を出す
将来に不安を感じながらも、DJの技術を磨き続けたdj Honda。音楽を続けるために答えを求めて1990年単身アメリカに渡米し、日本人として初めてDJ Battle World Supremacy(DJバトル世界大会)に出場します。
その時は1回戦で負けてしまいますが、1992年にニューヨークで行われたDJ Battle World Supremacyで「準優勝」に輝きます。
ヒップホップ発祥の地ニューヨークで認められたことからdj Hondaは、「答えはここにある」とアメリカで活動することを決めました。大会時の動画が残っていました。鬼のスクラッチ技術です。
デビューし、レコードレーベルを立ち上げる
1994年アメリカに移住したdj Hondaは、今後音楽しかやらないという強い思いから、トラックメーカーとしての音楽活動に力を入れ始めます。東海岸の大物ラッパーと1stアルバム「djhonda」を日本でリリースし、大きな話題を呼びました。
1997年には2ndアルバム『h II』をリリース。その中の曲である「Travellin’ man」はアメリカのビルボートチャートのラップ部門でアジア人として初めてランクインするという快挙を成し遂げます。
1999年にニューヨークと東京にdj honda RECORDINGSというレコードレーベルを立ち上げ、アメリカで唯一認められた日本人DJとしての地位を不動のものにしました。
デビュー後は世界を股にかけて活躍
2001年は自身のレーベルから3rdアルバム『h III』をリリース。以降は世界を相手に活躍の幅を広げ、自身のレーベルからリリースしたシングル曲を次々とビルボートチャートにランクインさせています。
2005年頃から、般若にビートを提供するなど日本人アーティストともタッグを組むようになりました。2015年にB.I.G.JOEとタッグを組みつくりあげた『Unfinished Connection』が有名です。
他にも、2019年には紅桜と『dark side』。2021年にはILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)と『KINGS CROSS』、2022年にはSIMONJAPと『Golden Age』をリリース。近年、活動拠点を日本に移しています。
その後も国・ジャンルを問わず様々なアーティストとコラボレーションを重ね、今も尚進化し続ける日本ヒップホップシーンの生ける伝説です。
dj Hondaの人気曲は?
dj Hondaの人気曲と、pucho henza編集部の一押し曲を紹介していきます。
dj Hondaの人気曲①「Travellin’ Man feat. MosDef」
当時のビルボードチャートで16週以上ランクインし続けた名盤。1990年代の本場ニューヨークのヒップホップを味わえます。
dj Hondaの人気曲②「Shine On」
B.I.G.JOEとdj Hondaがコラボした師走の讃歌。12月の札幌を舞台にB.I.G.JOEの力強いリリックとメロディアスで華やかなdj Hondaのトラックが最高にマッチしています。
dj Hondaの人気曲③「CLASSIC feat. Zeebra / RINO (O.G. Remix)」
日本でも屈指のラッパーであるTWIGYがZeebra、RINOを迎えて作った「CLASSIC」をDjHondaが超イカついリミックス。内容はまさに王道のヒップホップ。是非、聴いてもらいたい名曲です。
編集部おすすめ曲「dj honda × ill-bosstino “SEE YOU THERE」
アルバム「KING CROSS」収録曲。DJHondaのビートにILL-BOSSTINOが優しく丁寧にリリックをのせます。いつまでも聴いていられる名盤です。
dj Hondaと仲のいいラッパー
dj Hondaと仲のいいラッパーについて紹介します!
B.I.G.JOE
![](https://pucho-henza.com/wp-content/uploads/2023/07/image-35.png)
B.I.G.JOEはゆったりとした独特の世界観をもつ北海道のラッパーです。dj Hondaと同郷ということもあり、交流を深め多くの楽曲を作成しました。
dj HondaのTwitterでは、B.I.G.JOEの出演情報をリツイートするなど仲の良さが伺えます。
BOSS THE MC / ILL-BOSSTINO
![](https://pucho-henza.com/wp-content/uploads/2023/07/image-34.png)
BOSS THE MCは、北海道札幌を拠点にするヒップホップグループTHA BLUE HERBのMCラッパーです。外部作品の時にはIILL-BOSSTINOと名前を使い分けています。
2020年に札幌のイベントで一緒になり、朝まで酒を酌み交わし音楽について話をし、交流を深めました。
「自分も相当やってきたつもりだったけど、これでも足りねえんだって。身をもってそれを教えてくれる人にヒップホップで同じ地元で初めて出会えたし、やっと先が見えた感じがする。
Mikiki – ILL-BOSSTINOが語る、伝説的なdj hondaとのジョイント作『KINGS CROSS』の舞台裏と成果
とインタビューで語っており、dj Hondaに対して深いリスペクトを感じ取れます。
また、B.I.G.JOEとdj Hondaについて語っている動画がありますのでのぞいてみてください。
dj Hondaのファッション
dj Hondaは「h」マークのロゴが入ったファッションブランドを立ち上げ1990年代に一大ブームを巻き起こしました。
ここではdj Hondaのファッションブランドについて紹介します。
dj Hondaの「h」マーク誕生秘話
デビュー後、音楽だけを見てほしいという思いから顔の露出は避けていました。しかしデビューにはアーティストの写真が必要です。
そこでdj Hondaは自身を表す「h」のマークが入ったキャップを作成し、キャップを深く被った写真を作成し「h」のマークを素顔の変わりにしました。
そういった経緯から誕生した、「h」のマークは見た目とバランスを何回もデザイナーとやり取りし、こだわって作ったそうです。
最初は「商売になると思ってなかった。音楽を広めるための一つになってくれれば」
withnews-「dj honda」の今、グッズ注目……心境を本人に直撃 顔見せない理由
と語っており最初は音楽を売るための宣伝として配っていたそうです。
dj Hondaグッズの流行はイチローから
dj Hondaのキャップは、元プロ野球選手「イチロー」が愛用していたことをきっかけに当時の若者の心に刺さり、1990年代日本中で一大ブームを巻き起こしました。
あまりの人気ぶりに対応しきれなくなったdj Hondaはライセンス管理会社「サウスアンドウエスト」とライセンス契約を結びます。
大衆路線を強めてキャップだけではなく、パーカー、スニーカーなど様々なグッズを作り、最盛期には100億円の売上を記録し、看板商品であるキャップは30万個も売れたそうです。
最盛期ほどの売上はありませんが、今でもキャップは約6万個売れるなど根強い人気を誇ります。
dj Hondaのキャップはダサい?
大衆路線を強めたことによって、スーパーに入っているカジュアルファッション店などにおかれ全国に広まりました。あまりにも広まりすぎたため、最初のヒップホップのイメージが薄れてきました。
実際に水曜日のダウンタウンで「今dj hondaのキャップ被ってる人 誰も”h”の意味分かってない説」と取り上げられるほどです。
今ではあまりファッションに興味がない中高年や中学生が身に着けているイメージがありますのでダサいという声が上がっているのかもしれません。
dj Hondaのこれからの野望とは?
日本のヒップホップシーンにおいて十分な功績を残したdj Honda。
これからの野望について特に明言をしていませんが、「計画性はない。やりたいからやる。音楽しかやらない。すべては音楽のため。」と語っているように全ての行動の根源に音楽への一途な思いを持ち、やりたいように、やりたいことをやっているだけとこれからも呼吸をするように音楽をし続けてきました。
レジェンドdj Hondaが作り出す楽曲にこれからも要注目です!
dj Hondaまとめ
「dj Hondaは音楽の挫折という困難を、音楽への一途な思いで乗り越えた。」
「挫折をした」という悩みを持つ方は、dj Hondaのように①自分と対話し、自分が本当にしたい一途な思いをみつけること。そして、②その一途な思いを大事にし、愚直にやりつづけることで、挫折をのりこえられるのではないでしょうか。
なにはともあれば、まずはdj Hondaがリミックスした「CLASSIC feat. Zeebra / RINO (O.G. Remix)」をヘッドフォン爆音で聴いてみてください!
今後もdj Hondaの活躍から目が離せません!